ユダヤ人と言語 Jews and Languages

みんな何かでマイノリティ。鴨志田聡子のブログです。All of us are minorities. By Satoko Kamoshida

学び合いという発想2

私は最近授業する側になって、教えると学ぶなあと実感しています。

あるヨガの先生が「(ヨガを)深めるために教えた方がいいよって言われて教え始めた」と言っていました。私も教えて深まっているというのを実感しています。

海外でユダヤ人とイディッシュ語イディッシュ語文学などの授業を受けてて気がついたことがあります。先生は学ぶ「場」を作っているけれど、上から一方方向に教えるという感じではありませんでした。良い授業はみんなが知識を出し合って、一緒に学んでいました。

イディッシュ語の先生には、イディッシュ語母語(生まれた時にお母さんが自分に話したことば。自分が一番最初に聞いて、話していたことば)ではない人も多いです(ヘブライ語の先生も)。逆に生徒の中には、イディッシュ語母語の人がいます。

私は、先生が「(昔)どうだったか」とか「こういうのはなんというのか」と生徒に聞くと、生徒がみんなに向けて説明してくれるという場面を見たことがあります。若手が新しい知識や考え方を披露することもあります。それがまた議論になって、別の人が発言したりしていて、授業な知識を共有する場として、機能していました。お互いがよくわかって、休み時間の話のネタもつきません。

しばしば、いろいろな人が発言して事態の収拾がつかなくなりそうになるのですが、先生たちはそこをなんとか切り上げて、次に進むことができます。授業が終わる頃は、みんな授業中に言いたいこと言ったので、スッキリ!すごい。

ただ、このやり方は、先生の人徳や力量、経験がもろに試されると思います。イディッシュの先生たちは、聴衆に選ばれた学びの場のリーダーなんだなと思います。ということで、聞く側はリーダーの育成をしているわけで、誰を育成するかっていうのが選ばれているのかもしれないです。