ユダヤ人と言語 Jews and Languages

みんな何かでマイノリティ。鴨志田聡子のブログです。All of us are minorities. By Satoko Kamoshida

シリーズ「広島に行って」3 回目 戦後やトラウマにかんする一考察

(前回の続き。乱文ご容赦)

この約20年間、ユダヤ人と一緒にイディッシュ語を学び、話を聞き、いろいろな場所を訪問してきました。 イディッシュ語を学びたい、ものにしたいという一心でやってきたことです。

そんな中、第二次世界大戦負の遺産や当事者、第二、三世代にも及ぶトラウマを見てきました。誤解を恐れずに表現すると、集合的記憶に注目するとユダヤ人と日本人の戦後は非常に似ていると感じてきました。

・建国、発展、復興の中で被害が時として社会から利用される一方で、傷ついた人々は置き去りにされ、心を封印せざるを得なかった

・当事者が話せない時間があまりに長い

・当事者激減し、記憶の継承について議論されている ・風化が危ぶまれる

・大雑把には世界的に知られている

・個々の体験は多様であまり知られていない

戦後、しかもごく最近のことですが、福島についても当てはまると思います。

さらにユダヤや日本に限らず、いろいろなところのいろいろなことについて言えるでしょう。

おととい東京外国語大学イディッシュ語のクラスは最終回を迎えました。ポグロムホロコースト、原爆、日韓関係などに話が及びました(イディッシュ語に限らず、ダイナミックな話ができるのも学生が優秀なおかげです)。

ある学生(ポグロムの研究をしている他大学の学生)が、ポグロムについて読んでいると辛くなる、ユダヤ人だけでなくロシア人もドイツ人も彼らの側の記録を読むとお互い苦しかったことがわかりなおさらつらいという話をしていました。本当にその通りだと思います。

彼女は経験豊富、かつ、いろいろな言語が読めるから、多角的に見えているのだな。と思うと、人間は才能や機会、能力に恵まれるほどに苦しみも増える(もちろん喜びも)なあと思いました。

どっちもつらかった話で思い出すエピソードがあります。前にも書いたかもしれません。私は2006-8年にエルサレムヘブライ大学にイディッシュ語の勉強と研究のために留学し、ヘブライ語の授業も受けていたんです。ユダヤ人の先生がドイツ人の学生(牧師を目指して修行していためちゃ優しい人)に「第二次世界大戦について家族はどんなことを話していたか」とききました。ドイツ人の学生は「お腹が空いていた。食べるものがなくて苦しかったと聞いている」とだけ答えました。先生は絶句。しばしの沈黙。 私が韓国語学んでいたとして。韓国人の前でこんなことがいえただろうかと何度も考えました。でも今はお互いの状況をシェアできるのは大切なことだなと思います。

そういえば高校の日韓交流で知り合った韓国人の友だちとは、しばしば連絡をとっています。彼女はとても優秀で、英語の他にフランス語を学び、さらに日本語を学び、東京外大に留学し、ソウル大学で言語を研究しているので驚きです。私が東京大学言語学研究室にいたときに彼女がソウル大学にいるとのことで、お互い言語(しかもマイノリティ言語)に取り組んでいるんだ!と舞い上がるような、うれしい気持ちになりました。

大事な人とのつながり的な部分がうれしかったのでした。