ユダヤ人と言語

Satoko Kamoshida's Blog 鴨志田聡子のブログ.

キブツが出てくる映画

授業で話題になったので、キブツの話が出てくる映画(今思いつく限り)をメモしました。

ネタバレ防止を理由に、詳しいことは書きません(サボり)。

『甘い泥』(2006)は、かなり重苦しい内容です。家で見てそのまま動けなくなりました。

Adama Meshuga'at (2006) - IMDb

この映画には衝撃を受けました。たくさん書きたいことがあるのですが、また今度にします。映画『甘い泥』で検索すると日本語の映画批評や感想が出てきますので、ご参考までに。

考えさせられるけど、見ている時に気が重くならないのは、安楽死をテーマにした『ハッピーエンドの選び方』(2014)です。これにもキブツが出てきます。

映画『ハッピーエンドの選び方』公式サイト

エヴァ』(2016)にもキブツが出てきます。こちらは、『甘い泥』を思い出させる重苦しい映画でした。ガガーンという感じでした。みた後に隣の人と感想を話せたので、ある程度消化できました。内容が辛かったけど、無事家まで帰れました。助かりました。

第29回東京国際映画祭 | エヴァ

 思い出しただけで辛かったです。自分以外の人の苦しみは、ある程度までは想像できるけれど、それ以上はわからないことを忘れないでおこうと思います。

日本人でキブツに住んでいた翻訳家で著作家の樋口範子さんのサイトはこちら。

樋口範子の本棚

タミ・シェム=トヴの『ぼくたちに翼があったころ』は、樋口さんが翻訳しています。

学び合いという発想2

私は最近授業する側になって、教えると学ぶなあと実感しています。

あるヨガの先生が「(ヨガを)深めるために教えた方がいいよって言われて教え始めた」と言っていました。私も教えて深まっているというのを実感しています。

海外でユダヤ人とイディッシュ語イディッシュ語文学などの授業を受けてて気がついたことがあります。先生は学ぶ「場」を作っているけれど、上から一方方向に教えるという感じではありませんでした。良い授業はみんなが知識を出し合って、一緒に学んでいました。

イディッシュ語の先生には、イディッシュ語母語(生まれた時にお母さんが自分に話したことば。自分が一番最初に聞いて、話していたことば)ではない人も多いです(ヘブライ語の先生も)。逆に生徒の中には、イディッシュ語母語の人がいます。

私は、先生が「(昔)どうだったか」とか「こういうのはなんというのか」と生徒に聞くと、生徒がみんなに向けて説明してくれるという場面を見たことがあります。若手が新しい知識や考え方を披露することもあります。それがまた議論になって、別の人が発言したりしていて、授業な知識を共有する場として、機能していました。お互いがよくわかって、休み時間の話のネタもつきません。

しばしば、いろいろな人が発言して事態の収拾がつかなくなりそうになるのですが、先生たちはそこをなんとか切り上げて、次に進むことができます。授業が終わる頃は、みんな授業中に言いたいこと言ったので、スッキリ!すごい。

ただ、このやり方は、先生の人徳や力量、経験がもろに試されると思います。イディッシュの先生たちは、聴衆に選ばれた学びの場のリーダーなんだなと思います。ということで、聞く側はリーダーの育成をしているわけで、誰を育成するかっていうのが選ばれているのかもしれないです。

学び合いという発想1「学びの桃源郷」

先週の土曜日、横浜の朝日カルチャーセンターの「ユダヤの精神史」という連続講義で、「ユダヤと言語」という回を担当しました。

私が話す方だったのに、たくさん学ばせていただきました。

土曜日の午後のルミネ横浜の8階。カルチャーセンターのフロアは、たくさんの方々で賑わっていて、スタッフの方々もかなりお忙しそうです。

フロア全体から、学ぶぞ!という意気込みが伝わってきて、圧倒されました。土曜の午後に学ぶことを自ら選んでいらっしゃる。

すごい・・・。学びの桃源郷のようでした。

教室に入ると、さらに学ぶぞ!と意気込みが強く伝わって来ました。緊張感もありました。

授業では、受講生の方々が、舌足らずな私の話を一生懸命聞いてくださり、色々教えてくださり、質問をしてくださいました。教えているけど逆に教えていただくという、(後で考えてみれば)私的に理想の場でした。

(その時は必死でしたので、最初、みなさんの顔が険しかったときに私の説明が下手すぎるかなとか、途中、なんで私ばっかり話しているんだろうでも私が講師だからか・・・とか、オーディオ機器がうまく使えなくて凹んだり、いろいろあったんですが)

授業が終わってから、面白かったとフォローしてくださった方、最後のスライドに、書いたイディッシュ語の読み方と意味を聞きに来てくださった方(説明するのを忘れていました)、ありがとうございました。本当に嬉しかったです。

その後、授業をコーディネートしてくださった方(なんと、大学の大先輩でした)とお話して、企画段階で非常に練ってくださり、私が話す機会をいただいたと知りました。

私は感謝と感動で雷にうたれ、夜、興奮して、その感動を夫に話し続けました。散々喋ってきたのに、まだ喋り足りなかった自分・・・。情けないですが、止まりません。

こどもが寝る時間になりました。こどもは「おはなししたいのにママがずっとしゃべってて・・・しゃべれなかった!」と泣きながら寝ました。こどもにも私がいない間に、いろいろあったのに聞いてあげられなかった・・・。

前進しようと思います。学び合いの場がずっと続きますように。

私もイディッシュの先生のように、たくさんの意見や質問などなどが出ても、授業が無事終わる、学び合いの場を作れるように経験と試行錯誤を重ねようと思います。

ことばのこと2「そうだら、いいだら、すけそうだら」

日本語だって、場所によってだいぶ違います。

イスラエルから帰ってきてから、新潟の親戚の集まりに行きました。自分の日本語が相手に通じているのに、相手の言っていることが自分には全くわからない経験をして、「ヘブライ語より日本語の方がわからないなんて・・・」と思いました。義理の母が通訳してくれて、やっと意味がわかりました。その時、義母は二つのことばを喋れるんだなということを知りました。ちなみに義母は若い時に新潟から東京に出てきたそうです。「母強し」。
ところで、私は富士市で生まれました。小学校入学前に富士宮市に引っ越しました。心のふるさとは富士宮です。ちゃんと覚えていませんが、その頃から「〜ら」「〜だら」と語尾につけることばを話すようになったと思います。

実母は小田原市出身です。実母(ここから先に出てくる「母」は実母です)からは、小学校に入ってから、「そんなことばはやめな」とよく言われました。私は無意識で国語の教科書の日本語と私の日本語は同じだと思ってましたし、母がなんのことを言っているのかわかりません。

小田原に母の親戚がいて、たまに遊びに行くと、叔父から「そうだら。いいだら。すけそーだら」とよくからかわれました。どうしてか、悔しくて涙が止まりません。「泣くともっと喜ぶよ」と母に言われ、泣かないように気をつけても止まらない。

私は号泣しながら、「そうれ。いいけ。すけそーけ!」と言い返したけれど、「『すけそうだら』には勝てないな」ということがよくわかっていました。

言い返しのことばの迫力も足りませんでした。小田原の親戚は「いいけ」はよく言ってたけど、「そうれ」とは言わない。それを言ったら、富士宮では「いいだら」というよりは、「いいら」です!でも「すけそうだら」の迫力はすごかった・・・。

小田原の方が富士宮よりは東京に近いし、都会だし、そういう点からも「ら」より「だら」のほうがダサくて、結局何をやっても叔父には勝てないというのがありました。今から考えると、「方言話者が別の方言話者を笑う」というありがちなパターンです。叔父、大人気ない・・・(残念ながらもういません)。

こんな恥ずかしいことを私もやってしまったのでした。

あるとき、富士宮の小学生として、津からの転校生を迎えました。ここから書くことは今から考えると申し訳ないので、書きたくないです。でも誤解を恐れずにいうなら、どうしようもなかった・・・。

私たちはその子の話す日本語がどうしてもおかしく思えて、笑ってしまいました。その子が本読みで指名されると笑いをこらえるので必死でした。話していても、言っていることは全部わかるのに、アクセントが全然違う・・・。衝撃的でした。ちなみに東京からきた転校生の日本語はそんなに違わないように感じました(転校生の方は感じていたんだろうな・・・)。

中学の時に静岡県に某私立の女子校に入り、また衝撃を受けました。

その中学には、地元の静岡東部の生徒、茅ヶ崎市(神奈川)から静岡市(静岡)くらいから通ってくる生徒がいました。そこは寄宿舎もあり、東京、横浜、名古屋、長野などの生徒が住んでいて週末だけ家に帰っていました。

学校で、(静岡にある学校なのに!)いつものことばを話していたら、「『ら』つけるの可愛い」とか、「『こばっちょ』って意味わかんない」と言われました。えええーー。

富士宮の友達とは「こばっちょ」と普通に使っていたような。「はしっこ」っていう意味です。その日まで、標準語だと思っていましたよー。

確認のためググったら、富士宮に「カフェこばっちょっ」て店がありました。(しかし敷地が広そうで・・・どこがコバなんだろう。行かなければわかりません)

https://tabelog.com/shizuoka/A2204/A220401/22028402/

あと蚊に刺された時に「(爪などで)かく」と同じように使う、使う「かじる」っていうのも東京や横浜の子には通じませんでした。「かじるって、腕かじるってびっくりした」と言われ、「かじっちゃだめだよ」ってよく使うので、方言だって信じられませんでした。

続く。

ことばのこと1「何カ国語ですか?」

私はしばしば「何ヶ国語話せますか」と聞かれることがありますが、答えに困ります。

というのはイディッシュ語には国がありません。どこの国の国語でもありません。いろいろな国で話されています。アラビア語も、地域によって方言があり、方言同士で通じないらしいです。逆に標準語だと自分のいいたいことはいろんな国で通じるみたいです。「方言は言語じゃない」という方がいても良いですが、通じないとか、違うんだったら、仕方ありません。

あとは、英語がイギリスでもアメリカでも話されているというような事情も話を複雑にします。英語を話す人は、「何カ国語の外国語を話せますか?」と聞かれて、「一国語です」と言ったら、ちょっとおかしいなと思うかもしれません。結局「英語を話せます」という答えが求められていると思います。

さらに国境も変わることがあるなど、色々複雑な事情がありますので、「ヶ国語」カウントには無理があります。

ややこしい話ですが、質問する人はただその人について「幾つくらい話せるのか」、「どういう人なのか」、「自分と共通点(通じることば)はあるのか」などを知りたいくらいだと思います。とりあえず話のきっかけくらいなんじゃないでしょうか。

ということで、私は、「どのことばが話せますか?」「幾つのことばを話せますか?」、「何語が話せますか?」、「何が話せますか?」という質問の方が良いと思ってます。

続く。

 

とにかく触れること、使ってみること、楽しむこと、全てはそこから始まります!

おかげさまで東京外国語大学オープンアカデミーのイディッシュ語講座が成立しそうです。

春講座の受講者の方がチェックして、大丈夫そうですよと教えてくださいました。応援してくださりありがとうございました!

残席がウェブサイトで見られるんですね。

まだ残席あります。

イディッシュ語|アカデミー講座|東京外国語大学 オープンアカデミー

ことばは、とにかく触れること、使ってみること、楽しむこと、全てはそこから始まります!内容はクラスの状況によって多少前後することもありますがご了承ください。既習の方にはリードしていただくなど、復習箇所も楽しめる内容にします。

語学の達人

20世紀の終わりくらいからこれまでに出会った、いろんな語学の達人たちを観察し、気がついたことを中間報告しようと思います。

語学の達人は一見天才のように見えます。でもまず彼らは努力の達人だと思います。そして語学学習を主体的にする達人、自分や周囲のいろんな言語を受け入れる達人だと思います。

私は今学期は、東大と外大と外大の社会人向け講座でイディッシュ語を教えています。他にも日本手話の専門教育機関である国立リハビリテーションセンータの手話通訳学科文化人類学を教えています。各所で週に一回、学生の方々に会います。

みなさんを見ていて思うのは、語学学習には主体性が大事だなあということです。

イディッシュ語を去年の8月から始められた方々が、最近イディッシュ語で言いたいことが言えるようになってきています。聞いてみると、ご自分でかなり頑張っていらっしゃっているとのこと。今年の4月から勉強を始められた方々も、イディッシュ語の質問にイディッシュ語で答えられるようになってきています。

手話の学校では、勉強中だという方もすでにかなり手話を話せます(ちなみに私は手話を教えていなくて、垣間見ているだけです)。今年の4月に入学した方々は、10月からは今日室外の学院生活では日本語は使えなくなって、原則手話だけになるみたいです〜。ヒョエー。ちなみにこの学校では書きことばは日本語が共通語ですので、どうしても手話で言えない場合は書きこどばで対応できます。日本手話と日本語間の通訳をしてくださる先生や学生の方もいます。

と、各所で、ものすごい進歩を遂げられている方々を観察している私です。自分自身は、語学はかなり苦手です。でもたまに、語学がよくできるとか言われます。なんでだろうと思うんですが、苦手でも好きだからかもしれません。通じた時は嬉しいですからね・・・。最近は手話でそれをほんのり味わっています。

手話もいくつか覚えました。下手くそですので、手話で「おはようございます」といったつもりが、招き猫みたいになっているのですが。「またね」は「はいチーズ」みたいになります。反射的に相手に伝わる手話をするのは難しいことなんだなあと思います。

ところで、多くの方は英語の学習のご経験があるのではないでしょうか。

英語の勉強をする中で、単語の綴りをみてもうまく発音できなかったり、お手本の発音を真似できなかったり、単語を一応覚えたのにちょうどいい文脈で使えなかったり・・・。真面目にやってるつもりなのに〜と、なかなかもどかしいですよね。

私は最近語学というのは、鉄棒やマット運動に似ているんじゃないかと思っています。鉄棒やマットがうまくできない時と同じで、言語のコミュニケーションもうまくいっていないと、自分でもなんとなくわかるんですが、でもどうしょもなくて・・・。

うううっむずかしいーという感覚、似ている気がしています。でも、ふとした時に「あ、そっかー」とわかったりすると嬉しいですね!

相手の言語で話したいって気持ちが通じるだけでも、何かは通じているわけで、

イディッシュ語で言えば、

.בעסער ווי גאָרנישט

ラテン文字表記:beser vi gornisht. (意味:何もないよりマシ。)

残り少なくなった今学期です。たのしく無事に終わりますように。

広告を非表示にする