前投稿で救急車にのったおばあさん(人の手 - ユダヤ人と言語 Jews and Languages)の続きの話です。
数日前、お元気なのに転倒し、救急車で運ばれていったおばあさん。一緒に救急車を待った、お医者さんと私。
おばあさんのことは、きっと大丈夫だと信じています。でも、ときどきふわっと「大丈夫だったかな」、「病院からでられたのかな」などと気になります。
家で夕食をとるときもちょっと話題になったりして、いろいろな可能性がふわっと頭に浮かびそうになります。けれど、でもそれを踏んづけて、かきけして、「大丈夫でしょう!」と。
ことばには気をつけなければ。ことばには、現実をつくるような、すごい力があるから。
それはユダヤの研究を通して私が学んだ大事なことのひとつです(完璧にできたらどんなにすごい人になれるだろうか)。
それでおばあさんのことは「大丈夫だったかな」と思うことにとどめていたんです。
そんな中、今日バッタリ、おばあさんが救急車に乗る前までご一緒してお医者さんに会いました。
そしてお医者さんは会ってすぐ、「あのおばあさんは大丈夫だったかな」と言ったのでした。しかも「あのおばあさんのとき、一緒にいてくれたの」と、一緒にいた人に私について紹介してくれました。
今日のことがあって、この数日間、「きっと大丈夫だよね」という気持ちを共有していた人がいたことに感動しました。尊い心のつながりを感じる瞬間も多いので、前向きに生きようとおもう今日この頃です。